臓器死んでるマンの初チネイザンは拷問だったよ
昨日、人生初チネイザンに行ってきたよ。
チネイザンとは古代中国で発祥した気功療法の一つで、お腹にマッサージすることですべての臓器に働きかけるというもの。
死ぬほど痛い。 ヤバかったです。
痛みにはかなり強いほうなんだけど、それでもぜんぜんムリだった。 想像を絶する痛み。
「ぜんぜん力入れてないですけどネ…」とお姉さんは笑っていて、「かなり重症ですねぇ」と言われちゃった。
ですよね〜 だって臓器ほぼ死んでるもん。これからは、おうちでも積極的にセルフお腹もみに取り組んでいきたいと思う。
だけどなんで、私の内臓はこんなにもカッチカチに固まってしまったのだろう、ストレス?緊張?食べもの? 不思議だ〜
一般的に臓器は感情を溜める、といわれている。肝臓は怒り、肺は悲しみ、腎臓は憤り、etc…
いったいどんな感情がわたしの内臓たちに溜め込まれているのかしらん。
マッサージしてると溜まっている感情がわかるというセラピストさんもいるらしい。 自分でセルフで揉んでるうちに分かるようになれば嬉しいな。
それにしても痛かったな…
基本的に、苦痛を感じる=間違っている、というサインだとわたしは思っているので、セルフではもっと優しくモミモミしてあげようと思う。
今回チネイザンを受けにいったのは、人にやってもらうとどういう感じなのかを体感するため。
しばらく前から、 内臓揉んだほうがいい気がする〜 と思ってはいたんだけど、 自己流だといまいちどこを押せばいいのか、どれくらいの強さでするのか、手の動かし方、とかよくわからない。だから今回やってもらってすごく満足。なるほどなるほどがいっぱいあって楽しかった。
わたしは、自分の身体のケアというのは(身体だけでなく心もそうだけど)、セルフでできるものじゃないと意味がないと思っていて。
本来、にんげんというのはそれだけ(自分自身のみ)で完璧で、 必要なことは、 自分の身体が知っているし何でもできるはず、 というのが私の考え。
他人はあくまでそれを思い出すきっかけを与えてくれたり、ブーストさせてくれる存在。
「誰かにやってもらわないとダメ」と考えるのは、自分の力を信じていないということだし、 そうやって他人に任せてばかりいると、 どんどん欠乏感や自信喪失に繋がって、 悪循環になってしまう。
もちろん、 自分の力ではどうしようもできない!という状況に陥ってしまうこともあるし、 他人を頼るのが正解、 というときもあるけどね、 ケイスバイケース。
がんばったご褒美に♡というのはぜんぜん良い、 というかむしろやろう。 私もじゃんじゃん活用していきたいと思ってます。
月一回のマッサージがマジで癒し。
読みたい本と読みたくない本の違いについて
最近、読める本が少なくなってきてるなあと感じる。読める本というか、読みたい本。
わたしは自分と同じくらい本を読んでる人にはあんまり会ったことがない、ってくらいには小さい頃からたくさん本を読んでいるんだけど、当然のことながら成長と共に読む本のジャンルや種類は移ろい変わってきた。
それが読書の面白さでもあるよね。数年前に読んだ本を読み返してみたら、当時と受け取る感覚や感想がぜんぜん違ったりする。
小学生の時はハリーポッターとか夢中になって読んでた。ミヒャエル・エンデも好きだったな『モモ』とか『はてしない物語』とか。あとは偉人伝とかも読んでた、とにかく学校の図書館にある本を片っ端から読んでたね。青空文庫も好きだった。『黒魔女さんが通る!』とか『若女将は小学生』とか。懐かしいぜ。
中学の時はなぜか推理小説ばかり読んでいた。東野圭吾とか宮部みゆき、アガサクリスティーみたいな王道。あと当時めちゃめちゃ流行ってたケータイ小説も読んでた…『恋空』とかさ…いま思うと完全に黒歴史感があるんだけど中学生だったしまあいいよね、ということにしている。
高校生の頃は、賞を取った本(直木賞とか)を片っ端から読んでた。叙述トリックに感動して片っ端から読んだ記憶がある。自己啓発本の本家?的なカーネギーの『道は開ける』『人を動かす』とかナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』、あと『七つの習慣』とかを読んでたのもこの辺り。恋愛のハウツー本みたいなのも読み漁ってたな、今じゃぜったい読まないようなやつ。心理系の本やスピリチュアル関連の本も読みだした。アドラーにハマってたね。この頃よんだ『神との対話』は今でもわたしのバイブル。まあバイブルは他にもいっぱいあるのだけど。
専門時代はそれに加えて、海外の小説や純文学、コラムやエッセイみたいな類、詩とかも読むようになった。こうやってみると成長と共に読む本の幅がどんどん広がっていってておもしろい。
だけどいま現在、当時に比べると読んでる本は少ない。
読みたい!と思える本は以前よりすごく減ったなあと思う。読めない本も増えた。むかしは読めない本なんてなかった。
読書には、二種類あると思っていて、ひとつは娯楽のための読書で、もうひとつは学び(情報収集)のための読書。
わたしが減った、と感じているのは後者のほうです、学びの読書の本。
悩みがあればそれに関する本を何冊か読む、というのは、小さい頃からわたしにとってあまりにも当たり前の習慣で、だって友だちとかに相談するよりよっぽどタメになるから。
面白い考えやハッとさせてくれる言葉をくれる、良き相談相手でありアドバイザーだった(もちろんこれからも)。
だから本を読まない人間がどうやって問題を解決してるのかいまだに想像がつかない、マジでどうやってんの?
当時(小、中、高校生)のわたしには、知らないことがいっぱいあったし、なんていうか知的欲求のおばけだった。悩みもいっぱいで、自分のこともわからないし世界のこともわからないしで、情報はあるだけぜんぶ手に入れたかった。あまり興味のない本でも、有名だったりよく売れてたりしたらとりあえず一回読んでみたりしてた。
だけど今は、そういうことを全くしなくなった。
それはなぜ?と考えてみると、将来自分がなりたい理想像、目標とする人生のゴール地点、どういう感覚を得たいのか、などが、ある程度固まってきたからだと思う。
だからその道筋から明らかに外れてたり逸れてるものへはさっぱり興味がなくなった、というわけです。
昔は、なんかぼんやりと(幸せになりてー)と思っていたから、ストライクゾーンがかなり広かったんだろうな。
あとこれは感覚のはなしなので、言葉でうまく説明するのは難しいのだけど、本を書いてる人(著者)のエナジーが伝わってくる、というのがある。
似たような作品が2つあるとして、たとえば同じ言葉を使っていても、同じような内容でも、それぞれの書き手の意図や感覚、エネルギーが違えば、こちらに伝わってくる印象はまったく違うものとなる。
何を書くか、とか文章のキレイさ読みやすさなどは正直あんまり関係なくて、どういうエナジーで書いてるのか がいちばん大切で、結局それはその人のそもそもの人間性、みたいなことになってくるのですが。これはブログとかも同じ。
書いてる言葉や文章は、良いこととか綺麗事でも、伝わってくるエネルギーはどんより重たい、なんてことはよくある。わーこの人しんどそうだなみたいな。
そういう本はイヤ〜な感じや気持ち悪い感覚になって読む気が失せてしまう。
身体が、読むことに対して拒絶反応を起こしてるみたいなかんじ。読みたくない文章を目が勝手に飛ばしてたりする。
そんなかんじで読める本は以前より減ってしまったけれど、そのぶん読める本に出会ったときの喜びはひとしお。
そういう本を読むと、頭と身体が気持ちよくなる。なんだか細胞が喜んでるみたい。ゾクゾクしたりフワッとしたり感覚が広がっていく感じがする。心地よい〜 にこにこ、となる。最高の体験。
それを感じさせてくれる本に出会うのは、とても楽しいしわくわくする。
そういう本を書ける人にいつか自分もなりたいね。
ロマンチックな非現実感にきゅんとする
わたしがキュンとするもの。
拡張した耳、シャープな下顎骨、チラリと見える銀歯、浮き出た背骨、綺麗な形の爪。
きゅんとした瞬間って、なぜだか分からないけどすごく記憶に残る。そこだけが切り取られたみたいに、時間が経っても鮮明に色鮮やかに覚えてる。
性格的なことで、滅多なことじゃドキドキしたりきゅんとしたりしない、っていうのも関係してるのかもしれないけど、きゅんとさせてくれた相手のことって、いくら時間が経ってても、ふとした瞬間に思い出したりする。他のことは思い出さない。てか思い出せない。忘れちゃうから。
わたしはどうやら、「意外性×ロマンチックさ」に弱いみたいです。どうしてもグッときちゃう…
記憶に残ってるきゅんエピソードを2つ紹介するので聞いてください!
ひとつめは遊んでたら、たまたまそこにピアノがあって、その流れで、「俺 ピアノ弾けないんだけど一曲だけ弾ける曲があるんだ」と言って笑った男の子が、指づかいのぐちゃぐちゃな指でたどたどしく弾いてくれたのが、ヴェートーベンの「月光」だったとき。
え?!「猫踏んじゃった」じゃないの?!! 一曲弾けるっていう人はだいたいあれじゃん?! まさかの月光…?てかベートーベン…?嘘……、という衝撃があった。あれはかなりきゅんとしたね。
もうひとつは、ある時期よく電話していた人がいたんだけど。その彼は、ぜんぜん本を読まないのに、なぜか唯一シェイクスピアだけは大好きで、シェイクスピアの本はほとんど持ってた。
通話ごしに、自分の好きな台詞を暗唱して聴かせてくれたりして。わたしはたまに訪れるその瞬間がとても気に入っていた。
ぜんぜん本読まないのに唯一好きなのがシェイクスピアってなに?センス良すぎじゃん? わたしは「ヴェニスの商人」が好きだな、 もちろん「マクベス」とかも最高だよね… きみとそんな話ができるなんて全く期待してなかったからかなり感動だヨ、
きゅんとしたから好きになるとか、付き合うとかそういうのは別にないんだけど、すごいキラキラした思い出が1つできる、あの感覚がとても好きだ。海辺で光る石や美しい形の貝殻を拾ったみたいなさ。
相手の顔とか名前とか性格とかそういうのは、(忘れっぽいから)あんまり思い出せないし記憶からほぼ消えちゃうんだけど、その、きらめいた“瞬間”だけは色褪せないまま、わたしの中で輝き続けるんだよね。
もっときゅんとしたいよ、させてくれ! 心の中を色鮮やかなきらきらで埋め尽くしたい。
腸を整えてしあわせを掴む
腸内環境が鬼悪い。
むかしからお腹めちゃ弱くてすぐ下痢になるし、みんなで食べても自分だけ食あたりになって身悶えてたりする。
過敏性腸症候群(IBS)持ちで、学生時代はテスト期間中にストッパーよゆうで一箱なくなってたし、トイレが近くにない場所にいくのは今でもかなり不安。
アトピーが治らないのもメンタルが雑魚なのも、腸内環境がダメダメなのとかなり関係あると思うんだよね。
3年後までにぜったい治す。
ヒーラーとして一人前にやっていくには自分が健康であるのは絶対条件だと思っていて、だって元気そうじゃない人に何ができんの?ってわたしだったら思っちゃうし。
夢を叶えるためにも、腸内環境を整えるゾ。
なんか整えるのに3年かかるらしい。ちょうどいいじゃんね。
腸活、具体的に何をするかというと
・ヨーグルトにオリゴ糖ときなこかけて食べる
・肉はできるだけ食べない
・紅茶にイヌリン(水溶性食物繊維)溶かして飲む
・スナック菓子は食べない
くらいしか今のとこ思いついてないんだけど、他に何かあるかな。発酵食品食べるとか?漬け物?
まあとりあえず、こんな感じからはじめてみます。
断食とかやった方がいいんだろうけど、なかなかねぇ。そのうちやりたいという気持ちはある。
冷えとり靴下の抗いがたい魅力
冷えとり靴下を履いている。
「冷えとり健康法」の初歩の初歩のやつですね。
冷えとり靴下はふつうの靴下とはまったくの別モノで。ふつうの靴下みたいな、締め付け感とかしっかりと足にフィットしてサポートする役割みたいなのはゼロ。ゆるゆるのくたくた。かわいい
4枚も靴下を重ねて履くなんてバカじゃないの、って最初は思ったけど、いざ履いてみるとこれが気持ちいいんです。
なんかふわふわのワタの中に、足を突っ込んでるみたいな感覚。あったか〜い というより、はぁ…落ち着く…って感じ。
それが気に入ってほぼ毎日履いてる。足があったかい、っていうそれだけで、 ちょっとシアワセな気分になれる。幸福度の底上げ。
わたしの足が小さいのと、冷えとり靴下特有のゆるゆる感が合わさって、ずっと履いてるといちばん下の五本指ソックスの指のとこが脱げてきてしまうのだけが、やだなぁ〜と思ってるのだけど、これはどうしようもないか と今のところは諦めている。なんかいい策ないかな。
4枚履いてても、寒っ。みたいなときが結構あって、自分でもビックリする。こんなに身体が冷えてたなんて、知らなかったよ。
わたしは小さいときから、靴下を履かない子どもで、お風呂もすぐのぼせるから、烏の行水って感じであんまり好きじゃなかった。
だから自分のこと暑がりだと思っていたんだけど、実はそれって冷え性らしい。驚きだよ、身体って不思議ね。ツンデレなんか?
2年前くらいから、寝るときに靴下を履くようになった。だけど最初の頃は暑くて仕方なくなったり、寝れないから脱いでしまったり、夜中に無意識のうちに脱いでて朝起きたら裸足。ってことがよくあった。
だけど、そのうち慣れて、いまでは逆に靴下はいてないと不安。あったかくて気持ちいい。
現在は、家の中でしか冷えとり靴下ははいてなくて、外に出るときはふつうの靴下にはきかえてる。
ほんとは外にもはいてった方がいいんだろうし、そうしたいんだけど、なんかダサいしなぁ。
気分が下がるから今のとこ、それはしてない。持ってる靴履けなくなるし。ゆる冷えとりです。
体温が1度上がると、免疫力は30%、代謝は12%上がるらしい。すごいね。あげてこ
好きなタイプ
私はふつうの人と比べるとかなり多くのアニメを見ていると思うんだけど、基本的に“推し”というのは存在しない。
推しっていうのは何かというと、熱烈に好きなキャラクター、この人が一番好き!!!みたいなやつのこと。
私の場合、好きなアニメに出てくる登場人物だいたいみんな好き。ちょっとした差はあれど、この人がいちばん!みたいにはあんまりならないんだよね。みんないいね〜 と思ってみてる。
だけどそんな私にも、2人だけ、めちゃくちゃ好きなキャラクターがいて。
それが、『七つの大罪』のシンと『ハウルの動く城』のハウル。この2人だけは、マジでめちゃめちゃ好き。完全にタイプ。
でも共通点があんまりなくて、自分でもなんで好きかよく分からない。
なんで好きなのか、ちょっと考えてみる。
性行為によって何を得たいのか
やっすいマッサージ屋さんにいったら、担当の人が、まだ始めたてすぐですという感じの、わたしと同い年かちょっと上くらいのイケメンお兄さんだった。
施術はまあ下手くそ(緊張が伝わってくる、ちゃんとツボに入ってないときある)だったけど、精一杯な姿が可愛いし、別の意味で心が満たされまくったのでオールオッケーです。
あれはね、ほとんどセックスだわ、※ふつうのマッサージだよ)、自分がセックスに対して求めていたものを彼はくれた。
セックスに何を求めてるか、なんて今の今まで自分でも分かっていなかったのだけど、今日はっきりとわかった。
簡単に言ってしまえば「尽くされること」、どうすれば気持ちがいいのか、考えながら奉仕してくれること、力加減を変えてみたり質問したりして、こちらの様子を伺ってくれる。丁寧に丁寧に扱ってくれる。
そうか、わたしはすっごく大切に、扱われたかったんだ。ほんとは、それをしてくれるならセックスじゃなくても、良かった。ってことに今さら21年目に気がついたよ。
以前ある人に言われた「なんできみはセックスするの?」にという質問に、うまく答えられなくて、当時は好奇心?と答えたけれど、それだけじゃない気がしていた。性欲を満たすため?寂しさを埋めたい?誰かに必要とされたい?なんだかどれもピンとこなかった。やっとその答えがわかってスッキリした。
そうやって考えてみると、そんなセックスをしたことなんて、ほとんどない、ということに気づいてしまった。
だからいつも終わったあと、空っぽな気持ちになってたんだね。セックス好きなの?とかエロいねって言われるたび、心の中がモヤモヤして、でもそれがなんなのか分からなくて見ないようにしてた、んだけど、なんでモヤモヤしてたのか、今ならわかる。相手が喜ぶと思ったからそうしていたのであって、わたしは、自分がしてもらいたいことをただ相手にしていただけなのだ。こう振舞ったら喜ぶかな、こうしてほしいのかな〜っていう、思いやり。したいからやってるわけではない、いや、もちろんしたいからしてるんだけどね。
同じように、わたしだけをじっと見て、わたしの気持ちだけを考えてもらいたかったのです。そうやって、身体じゃなくて、身体の快感じゃなくて、心を愛撫してもらいたかったのだ。
男の人がわたしの中で単調なピストンを長いあいだ繰り返しているとき、どうしようもない虚しさに襲われることがよくある。なにしてるだろうってなんでわたしはこんなに悲しくなるんだろう?わからない、わからないけど、この人はやくイっちゃわないかな、なんて、そんなことを考える。どんどん気持ち良さも薄れていって、乾いていく愛液が、涙に変わっていってしまいそうな、そんな感覚。そういうときっていうのは、たいがい、相手はわたしを見ていない。目を瞑って、自分の中に入ってしまって、わたしはひとりここに取り残されてしまう。
それは、相手がわたしのことを本当に愛していないからなのかもしれない。本当にわたしのことを愛してくれる人とセックスをしたのなんて、もうずっと前だ。もしすごく愛されていたとしたら違ったのか?ふと、そんなことを思ってみたけど、きっと違うと思い直した。これはたぶん価値観の違い。
わたしはふつうの人より、繋がりを求めているのだと思う。セックスはエネルギーの交換だなんていったりするけど、その瞬間だけでいいから、心と心を合わせて、束の間でもいいからひとつになりたい。
他の人たちがどんな気持ちでなにを求めてセックスをしているのか知らないけど。
自分がほんとうに求めていることが分かってよかった。これからは、その旨を行為の前に相手に伝えてみることにする。
わたしが欲しいものはこれです。あなたが欲しいものはなんですか?