ぼんやりとした日常で
なんの為に生きているんだろう。
そう考えたことは今までだって数えきれないほどあったし、それに対するぼんやりとした答えも持っている。それでも、こう考えずにはいられない。わたしは今いったい何の為に生きているんだろうか?、と。
ぬるま湯みたいな生活を送っている。週に2日か3日バイトに行って、それ以外の日は本を読んだり映画やアニメを見たり、料理を作ったりして過ごす。休みの日は美味しいご飯を食べに連れて行ってもらったりしてちょっと贅沢を楽しむ。同居人との仲は良好だし何の不満もない。
不幸じゃないと思う、あたりまえに。だけど、なんだかぼんやりとしている。ありったけの熱情を注げるほどのやりたいことはないし、この人生がこのままずっと続くのだとしたら正直つらい。
書くこととヒーリングの仕事だけで食べていけるようになりたいとか、家を建てて好きな人たちとルームシェアしたいとか、そういう夢はたしかにあってそこに行きたいんだけど、でもその為に今自分は何ができるかというのがとても曖昧なんだよね。
書くことの練習とかはまあ地道にやってるし、自己ヒーリングもやってるけれど、なんていうか一進一退というかんじで心が折れそうな日々です。
ぜんぜん変わらないじゃん自分…みたいな。そういう積み重ねで人は成長していくってことも、同じようでも、ほんとはちゃんと少しずつ変わっていってるんだってことも分かる(信じたい)んだけど、やっぱりつらいよね。一生このままだったらどうしようって泣きたくなる。お先真っ暗じゃんって。
普通の人みたいに生きれたらいいのにって思ってしまうこともあるよ。でもできないんだよな、どうしても無理。どうしてわたしはこんな人生を選んできたんだろう。いつかわかる日がくるのかな。
ぜんぶ間違いじゃなかった、生きてるって最高だ、生まれてきてよかったって言える日がくることを切に祈ってる。
「いちばんに愛して欲しい」というやっかいな気持ち
すごいことに気づきました。人と一緒にいると疲れてしまったり、ほんとの自分でいられない理由のひとつが分かった。
それは「相手のいちばんになりたい」という欲求から、行動してしまっていたせい。
自分でもそんなこと考えてるとは気づいてなかったんだけど急に閃いた。驚いたぜ。
自分がそんなに好きじゃない人でも、けっこう広範囲にプライベートである程度仲が良い人くらいまではこれが適用されてる、考えてみれば。
相手の期待につい応えてしまうのとかノーと言えないとかカッコつけちゃって本音を言えないとか、そこからきてる気がする。全てとは言えないけどね。
今までは理由が自分でもマジで分かってなかったので、そんなことして何のメリットがあるんだよ?!いい人ぶっちゃって〜 と自分に対して思っていたけど、 メリットぜんぜんあったわゴリゴリの下心だったよ、この行動の原理。
「嫌われたくないから」そういう行動を取っているのでは?というのを人に言われたり自分でも考えてみたこともあるんだけど、ぜんぜんピンと来てなくてなんかそれとは違うんだよなあ〜とずっと思ってたんだけど、やっとすっきりした。
私は、“嫌われる不安”からではなく、“愛される期待”から、行動していたんだな。
相手にとって最高の人間になりきることによって、一番に愛されることを期待してた。不安というより期待を手放せずにいたんだ。あまりに多くを求め、ありのままの自分いられない。
「いちばんに愛されたい」という気持ちに気づいたから、とりあえずそれを解除しよう(今回はタッピングを使ったよ)と思って、ぺちぺち叩きながら、どうしていちばんに愛されたいのか?その欲求がどこから来てるのか考えてみたら、インナーチャイルドだった、まあ大体の問題はそっからきてるよね。
「お母さんにいちばんに愛して欲しかった」
ママがイライラして当たりが冷たかったり八つ当たりで謎に怒鳴られたこと、仕事が忙しくで構ってくれなかったこと、私の心配より世間体ばかり気にしていたこと、私より他の子の心配や面倒ばかりみていたこと、私の好きな食べ物や嫌いな食べ物を全然覚えてくれなかったこと。そういうのを思い出した。
平気なフリしてたけど、ほんとはいつも悲しかったし、寂しかった。私だけ見てて欲しかった。いちばんに愛してほしかった。何よりも大事にケアされたかったし、全てにおいて優先されたかった。
そういう傷ついて満たされなかったインナーチャイルドの気持ちが、それを満たそうとして、私に行動させていたんだね。ごめんね、今まで気づいてあげられなくて。寂しかったよね〜〜〜
根本の原因に気づけてよかった。
これに気づけたのは、さいきん飲んでるフラワーエッセンスの効果(おかげ?)もある気がしてる。ちなみに今飲んでるのはピンクモンキーフラワーです。
傷つきたくない思いと、人の痛みを見ることや、自分が怖れにさらされることへの恐怖を持つ人の心の奥には、深い羞恥心があります。自分を守ろうと仮面をかぶってしまい本当の自分をあらわしません。さらに、感情をオープンに表現できず、自己嫌悪、罪悪感から感情にふたをしてしまいます。これは、ほとんどが幼い日の屈辱的な経験やトラウマに関係があり、心の傷として奥深く内在しています。このエッセンスをとることで暖かで、オープンなコミュニケーションがとれるようになり、拒絶を怖れることなく、人間関係のリスクにも立ち向かう強さが身につきます。
ちな、これが終わったらセントーリーを買おうかと思ってる。
気づいて解放できたことで、これからの行動がどう変わっていくのか楽しみ〜
ねぇ、僕たち死んじゃおっか。
自傷行為はきもちいい。
突き詰めるとそういうことになるんじゃないか という気がしてる。
リストカットとかODのような分かりやすく目に見える自傷行為も、煙草を吸ったり飲酒したり、ピアスを開けたりSMプレイに興じたり、ジャンキーなものを食べたりすることも全て、直接的か間接的か、短期的か長期的か、という違いだけで程度の差こそあれ、ぜんぶ自傷行為のひとつだと思う。緩やかな自殺。死に向かう階段。
多くの人は死を恐れる。死にたくないと感じている。それなのになんでそんなことをするの?
それはやっぱり自分を傷つけるのが心のどこかで気持ちいいからじゃないでしょうか。
破滅願望というか破壊願望みたいなものを持っている人は少なくないと思う。(もちろんたまに全く持っていない人もいる。あの人たちはまじで健全。どうやったらあんな風に育つんだ?)
いつどこでその感情感覚が生まれるのか、むかしから不思議。産まれた時にはぜったい「自傷行為きもちぃ〜」とか思ってないもんね。それとも潜在的には持ってるのか?なぞ
でも後天的な要素は多い気がする。この世界はけっこう辛く苦しいことが多いから、それを喜びに変えられるマインドがないと生きていくのはかなりつらいものがある。
そもそも、この地球っていう惑星を選んで生まれてきた時点でドMという感じもするな。
まあ真相はさっぱり分かんないけど、今日も一日頑張って生きようね。さよなら
私の騎士(ナイト)はよわよわで困る
私の中には姫と騎士(ナイト)がいる。違う言葉で言うなら女性性と男性性みたいなもの。
姫というのは、守られるべき存在であり、大切なもの、私の核みたいな部分。
騎士(ナイト)は、そんな姫を守る存在。周りから傷つけられないよう守護し、敵を近づけないようにするのが仕事。
正直言って私のナイトはあまり役に立たない。あまりっていうか全然だめ。ほんとどうしちゃったんだろうってくらい弱々で、いつも姫を守れない。
怖がりで怯えて何もできなくて、目の前で姫が傷つくのを黙ってみていることしかできない。そしてナイトはそんな自分のことが大嫌いだ。姫のことをとても愛しているのに、恐怖に負けていつも何もできない不甲斐ない自分のことを恨むし怒る。
誰かに傷つけられたとき、それは相手が悪いんじゃない。自分自身の問題なんだ。自分を守ってやれるのは自分しかいない。それをするのはナイトであり、だから誰かに傷つけられたとき、その責任は相手ではなく自分にある。
だから私は傷ついたとき、自分にすごくムカつく。自分を守れなかった自分に。それで許せない自分を傷つけたくなる。自分で自分を罰したくなる。でもそれは自分を嫌いだからってわけじゃない。いや嫌いなんだけど、それだけではなくて自分を愛してるからこそ自分に腹が立つ。姫が守れないナイトに腹が立つ。
そういうとき、自分の中で好きと嫌いが両方あってどうしたらいいのかよく分からなくなる。
どうしたら私のナイトは強くなるんだろう?
ナイトが強くないと、この世界じゃ生きていけない。
ハリボテの私
私は嘘つきだ。ほんとのことなど何も言えない。息をするように嘘を吐く。嘘つきは嘘つきの匂いがわかる。同種は惹き寄せあう。だから私は嘘つきに愛されやすい。彼らは気づいているのだろうか。私が貴方の嘘に気づいていること。私が貴方に嘘をついていること。嘘をつかずに生きられない私たち、とっても可哀想で気の毒な人たち。
演じてしまうのです。私が望む“私”を。
それは本当の私ではないというのに。いつか本物になると信じて演じはじめたはずだけど、そんなのはムリだと気づいたときには、もう遅くて、とっくにやめられなくなっていた。やめたくてもやめられない、これはそう中毒みたいなもの。
自分で自分が認められないのだ、きっと。自分で“ある”ことを許せないのだと思う。
なぜだろう?わからない。私には私のことがわからない。自分でさえ自分のことが理解できないのに他人にそれを求めるなんて傲慢だよね。そんなことは分かってるのに。それでもすがってしまうよ、ごめんね。ばかだよね、分かってるんだけど、どうしようもできないんだ。
愛が終わることなんて、永遠にないよ。
「いっそ嫌われたいんだけど」って言ったら「それはむりだよ」って君は哀しげに笑ったね。じゃあ死んでよ、一生愛してあげるから
あの人は元気だろうか。真っ暗な世界から私を救い出してくれた人、唯一の光。生きる希望をくれた。愛することがどういうことなのか教えてくれたね。
はじめて、私が愛した人。
この人の為ならなんだってしたいと思った。命だって惜しくなかった、それくらい好きだった。
好きだった、なんて過去形で言っているけど、ほんとは今でも好きなのかもしれない。それはきっと相手も同じ気持ちだから、とか1年に一度か二度とかかってくる電話のせい、なんて理由をあげようと思えばいくらでも挙げられるのだけど、それよりもなによりも、ただ、愛してしまったから、それが全てなんだと思う。
愛が終わることなんて永遠にないよ
いちど好きになった人間のことを嫌いになる、という意味が私には分からない。
もし嫌いになったとしたなら、それは最初からホントの意味では好きじゃなかったのだ、たぶん。
あれほど愛したのは後にも先にもあの人だけだったけれど、あれから、この人のこと好きだな〜って思う人は男女問わず何人かできて、そのことを私はとても嬉しく思う。
そして、その全員のことが今も好きだ。これからもずっと好きだと思う。
愛するということ
一度愛してしまうと、それは、もうその人の全てを許し受け入れ愛するということだから、どう頑張っても嫌いになることなんて、できなくなってしまう。
だからこそ、愛す人は慎重に選ぶべきなのだけど、愛には理性の及ばぬどうしようもないみたいな部分もあるから、これはしかたない。
例えば、誰かとお付き合いしたとして、時が経ってお別れの時がきたとしても、それは嫌いになったから別れる、とかではないんだよな。
ただタイミングというか、人にはその瞬間瞬間で必要な場と人っていうのがあるからそこに移動していくだけ。好きな気持ちは変わらない。
私の愛した人たちが、私と同じように私のことを愛してくれたらいいなあなんて、そんなことを思ったりもする。
まあだけど、そうであってもそうでなくても、私は貴方達のこときっと死ぬまで大好きだからね、という気持ち。
みんなしあわせになってね。
「自分から救われたい」なんて言っても
自分から救われたい。
「“自分”というものから、いっそ逃げ出してしまいたい」そう思ったのは一度や二度じゃない。何度も何度も数え切れないほど、その考えは私の頭の中に浮かんでくるんだ。
だけどそれは、私が自分のことを嫌いだからってわけじゃない。
むしろ私は私のことが好き。考えすぎる(考えずにいられない)性格も、繊細すぎたりみんなと違う変な感性も、社会不適合者なとこも、なんやかんやぜんぶ気に入っていて、面白いヤツだなと我ながら思ったりしてる。
だけど、だけどさ、たまに、どうしようもなく、それら全てが嫌になってしまう瞬間があるんだよ。
これは小さい我が子をワンオペで育ててるお母さんとかの心境に似ている。我が子が可愛くて愛しくて仕方ないのにストレス過多とかで余裕が一切なくなる状態に達したときに殺したくなる、みたいなあれと一緒だと思う。
可愛さ余って憎さ百倍じゃないけど、どんなに好きでも無理になる瞬間ってやっぱり少なからずあるんだよな。
そういう状態のときって、まじでどうしようもなくて、ほんとしんどくて、死にて〜〜〜 ってなるのよ、「じぶんうざいな?めんどくさいの極みじゃん、まじで無理…だっる」てなって発狂しそうになる、そういうときってだいたい思考促迫がヤバくなってて頭の中グッチャ〜うるせ〜〜って感じなので、やばい。
しばらく時間が経ったら、元の自分かわいい期に戻るから、ひたすら耐える。
ちな乗り切るための策としてオススメなのは『歌うこと』。
私の場合はApple Musicで好きな曲かけて歌詞見ながらひたすら歌いまくる。熱唱。楽しいしカラオケの練習にもなっていいよ。疲れ切るまで歌って寝ちゃお。あと誰かと電話したり会ったりして『話す』っていうのもおすすめ。
こういうときに一人で考え込むのは底なしの沼にはまっていくようなもんだから、とにかく気を散らすことに徹したほうがいい。
ちょっと落ち着いてきたら瞑想とかして内観するのも大事だけど、ピークの時はまじでそんな余裕ないから、考えないことのほうが大事だと思う。
まあこんな風にして私は、めんどくさくも愛おしい自分と日々付き合ってるわけだけど、こんな話をしてると思い浮かぶ言葉がある。
別の人間になることだけは絶対に嫌だった。他の人間になった自分をどうやって憎めばいいというのだろうか。
『唄うクジラ』村上龍
時には、自分から逃げたい救われたいと泣き言を言っているけど、じゃあ他の人になれますよ。と言われても私はそれを拒否するだろう。私はやっぱり私でないと意味がないのだ。誰にもなりたくない、誰でもない『私』でありたいのです。
たまには喧嘩しながらも、これからも仲良くやっていこうね。